私の小倉台日記

■プロフィール
勝山朗子(かつやま・あきこ)
  小説家、エッセイスト。房総文化懇話会会員。文学サークル『槙』同人。共著に『千葉児童文学選集』『槙・文学選集1・2・3』『何がそんなに…』など。千葉市在住。


見なかったことに

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 じめじめした季節になった。何年か前に「見なかったことにしよう」というコマーシャルがあった。流しの排水溝の汚れだったか、風呂場のカビだったか、どちらも不快なものだ。

 スーパーの眼鏡売り場に入ったときのこと、私はレンズを洗ってもらい、つるの緩みを調整してもらった。売り場を出ようとしたとき、子供を連れた男性が店先の眼鏡ケースを見ていた。右手は小さい子供の手を握っていた。私に近い方の左手で、ポケットから出した眼鏡をするするするっと並んでいるケースのひとつに滑り込ませた。大きさを試しているのかと思った瞬間、ごく自然にポケットに入れてしまった。次の瞬間、もう歩いて行ってしまった。実に、あれよあれよという間の出来事で声も出なかった。怖いものを見てしまった。そのとき私は思った。見なかったことにしよう、と。

 反対に、見なかったことにして、と思ったこともあった。夫がまだ元気で運転をしていたころのことだ。四十キロで走るべき道路を六十キロで走ってしまった。彼岸で霊園へ行く車が混んでいた。周りも同じくらいのスピードで走っていた。前を走る車が捕まったのが見えた。あっと思った時はもう笛が吹かれていた。その時は、ほんと、「見なかったことにして」と言いたかった。

 わが家には見えない振り、聞こえない振りをする人がいる。朝まだ寝ていたいときに起こすと、全く聞こえない振りをする。何度も起こすと、やっと聞こえたのか「寒いよう」と言う。「寒くない、はい、寒くない」と宥めすかして着替えを介助する。ちょっと目を離すとまた横になってしまうから「あぁあ、おいねぇよぅ、おいねぇよぅ」と千葉の方言を芝居調子で大声で言う。これが毎日だからテキも覚えて「ふん」と冷笑する。「聞こえているなら起きてよう!」と声も荒くなるのだが、見えない振りで目はしっかりと閉じたまま。「死んだふり?」と意地悪を言う。

 その点ねこのコマの方が正直だ。聞こえない振りなどしない。「コマちゃん」と呼べば、ちゃんと可愛い声で返事をする。

 生きていると、なかったことにしたいことがたくさん起きてくる。そのつもりでなくても起きてしまう。どう乗り越えていくかが課題だ。