固定の群れから流動の力へ 「Aura」 鯉江真紀子著 (青幻舎・5000円+税)

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 群衆写真といえば、土田ヒロミの「砂を数える」(冬青社)を思い出す。この本は、東京などの都市空間に吸い寄せられた群衆を固定の粒子としてとらえている。対して、鯉江の処女作品集は、流動の気体としたところに時代の変遷がある。鯉江の撮影技法は、個々の肉体の殻に閉じ込められた想念の群れを一つの発気体として結像させたのだ。

 1997年から2010年に撮影された約70点を収める。競走馬のゴールにわくスタンドの大群衆。長時間露光によって被写体が激しくブレる。いやブレるというより、ハイキーな色調が相まって白い気体となっている。大枚をはたいた馬券の当たり外れで、個々の感情は悲喜こもごものはずなのに、エネルギーの塊として群衆心理の視覚的結集に成功している。見開きページを多用した編集のさえが、そのエネルギーを増幅させる。また、美術館内の宗教画を前にしたカットは、黄金の気体で画面にかすみがかかる。多重露光であろうか。エクトプラズムのごとき一種の心霊現象にさえ見える。

 暗転の幕を使った観音開きのカットは圧巻。競馬場内のすべての金銭欲が、隅々まで行き届いたフレームに収まる。鯉江のカメラは微動だにせず、その前を群衆が大きく揺れる。人間の内面を見透かす深いまなざし。静的ショットが心境を凝視する。シャッターが切れる刹那、馬、騎手、馬主、観衆の心の境がなくなる。もうろうの白昼夢が、陶酔感を放つのである。

 「砂を数える」が撮影されたのは1976年から89年。写真評論家の飯沢耕太郎は「“顔”を失った人々の群れが、生気のない表情で漂っている」と某雑誌に記し、都市の非人間化を指摘した。今、その粒子は無縁の内界にひきこもるようになった。しかし、ひとたび外界に総結集した時、約30年間も続いたエジプトの独裁体制を崩壊させる強大な力となる。テレビカメラは数十万人規模のデモをパン・フォーカスで見せたが、鯉江のカメラならどんな怒りのオーラを立ち上らせたことだろうか。  (文化部 安原直樹)



写真集の狩人