扇谷上杉の臣・太田道灌 南総里見八犬伝(12)

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太田道灌の像(東京国際フォーラム)。山吹の歌にちなんで狩りのときの出立ち

 名将として名高く、また「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」(後拾遺和歌集・兼明親王)の歌にまつわる山吹伝説で知られる太田道灌(どうかん)が、『八犬伝』で巨田持資(おおたもちすけ)の名で登場します。

 道灌・本名資長(すけなが・道灌は剃髪した名)は、持資と名乗ったこともあるらしく、博覧強記の馬琴は持資の名を用い、また太田入道道灌を「巨田入道道寛」と表記と替えて登場させているのです。

 扇谷上杉家の家宰(かさい)・父太田資清(すけきよ)から家督を譲られた資長は、扇谷上杉家の持朝・政真・定正(さだまさ)の三代にわたって補佐し、古河公方・足利成氏(しげうじ)と28年間戦うことになります。

 資清・資長が古河公方の勢力への防御拠点造営のため、河越城(埼玉県川越市)を築き、岩槻城を手に入れるのは、室町幕府から堀越公方が送りこまれる前年の1457年。武蔵国豊嶋郡に江戸城が築城され、資長が居館を移し江戸城に入るのも1457年。資長の防御作戦が瞬く間に進んでいったことを示しています。

 この防御作戦により、古くから河越周辺に住む武士集団や江戸周辺を領地としていた秩父江戸氏などが滅んでいきました。

 一方、山内上杉家の家宰・上野国の長尾景春(かげはる)は、不満から古河公方と結び、上杉氏に反乱(長尾景春の乱、1476~80)。扇谷上杉定正の居城・五十子(いさらご)の陣を急襲します。長尾家は資長の母方の親戚ですが、資長は主君・扇谷定正に忠義を尽くします。

 しかし古河公方と室町幕府との間に和睦が成立すると、長尾氏は上杉氏と和解して、上杉側に戻る事件もありました。『八犬伝』で、長尾家は上杉側でありながらも八犬士に味方する場面があるのはこうした史実が背景となっています。

 和睦が成立し、成氏が関東の支配権を握り、堀越公方が伊豆一国支配と決まるのは文明十四年(1482年)11月。成氏が古河に逃れてから、関東を挽回するまで、多くの関東武士の悲願が背景となっています。

 『八犬伝』で伏姫が自害した1458年から1482年まで、八犬士が関東各地を訪れ仲間を探す25年の長い期間は、この苦悩の時代にあたっています。

 『八犬伝』に道灌が登場していると書きましたが、しかしながら、道灌その人が登場しているのではありません。道灌の命をうけた息子・薪六郎助友(すけとも・架空の人物)を登場させています。その理由は古河公方と室町幕府の和睦が成立するころ、道灌は主君・扇谷定正に疎まれ、国に蟄居(ちっきょ)を命ぜられていた史実に従っているためです。